不況型倒産ではない

中央宣興株式会社は、銀座2丁目に自社ビルを構え、私が入社する1979年には業界9位に位置していた広告代理店です。
海外ネットワークを古くから整備し、SPを中心としたアカウントをたくさん抱えていました。
数年前から、私が独立をしたので、中宣の同僚や後輩達との交流も活発になり、あるプランナーの後輩と昨日(30日)もソーシャルメディアのデータをメールで3回くらいやり取りし、普段と変わらぬ時間を過していました。
ところが、18時過ぎに突然、その後輩から電話がありました。
後輩「中央宣興が10月1日で倒産します。。。」
私「えっ!?」
後輩「24日の給料が全員振り込まれておらず、27日になると言われ、その日も振り込まれず、今日(30日)先ほど全員が呼び出され、倒産するので10月1日に全員解雇だと告げられました。」
後輩「私たちは、突然のことに声も出なかったのですが、明日から保険証が使えなくなるのは困る!と食い下がったところ、では、10月5日付で全員解雇ということになりました。」
私「クライアントの仕事はどうするの?」
後輩「10月5日以降、希望者だけ任意で出社をし、残務整理をしても良いと言われました。その間は、バイト代程度が出るらしいです。」
私「ちょっと待て!クライアントは、あなた方と同じように今日まで知らないんだよな?だとすると、今動かしている仕事は今後どこにどのように任せるのかの道筋はどうするんだ?」
後輩「わかりません。。。」
これをお読みになっている皆さん、何が悪いのか、わかりますか?
まず、なぜ会社更生法も申請をせずに、いきなり倒産の道を選んだのでしょうか?
これは、他人事ではありません。
広告業界特有の話でもないんです。
オーナー企業が選ぶ道なんです。
中央宣興は、昭和29年に看板を得意とする会社で日本橋で開業をしました。
当時の創業者は、大澤隆。
この社長は、創業者だけあって、立派ではありましたが、ワンマン極まりない。
そして、私腹を肥やすことに余念がなかった社長です。
エピソードとして、
私が3年目の頃、私の担当するメインクライアントであるHONDAさんが会社に来られました。
中宣は、51年に銀座2丁目の名鉄メルサの向かい、YOMIKOのはす向かいの銀座通りに面した場所に自社ビルを構えています。
そのエレベーターにHONDAさんをご案内しようとした矢先、秘書の女の子が来て、「エレベーターを降りてください!社長がお乗りになります。」と言うのです。
「いやいや、この方はHONDAさんですよ。」
(当時、中央宣興の売り上げの20%以上、60億円くらいがHONDAさんの扱いでした)
でも、彼女は当たり前のように「社長がお乗りになりますので」と繰り返し、私とクライアントは下ろされてしまいました。
どちらを優先すべきなんですかね?
非常識極まりない会社でした。
ちなみに、その後私が転職する「旭通信社(現ADK)」は、「ガラス張りの経営」と言われ、みんなで目標を立てた売上・利益を達成すると、その利益の80%をボーナスで分配してくれました。
これが、経営理念の「全員経営」です。
同時期の昭和31年に操業を開始した稲垣正夫社長(当時)は、私が入社して数日経ち、エレベーターで一緒になった際、私は遠慮をして乗ろうとしなかったのですが、「どうぞ、どうぞ。」と言われ、入社して間もない私に「HONDAさんとKIRINさんとどちらが大変ですか?」と声をかけてくれました。
当時、旭通の社員は、すべて稲垣社長に仲人をしていただいており、稲垣社長は社員の経歴をメモも見ないですべて話すという、社員をとても大切にしている経営者でした。
中途入社の私にも、前述のような言葉をかけていただき、「中途採用の私のことを知ってくれているんだ。」と感動をしたものです。
この方のためなら命も捨てられる!
そんな意気さえ感じたものです。
エレベーターを降りる際に、稲垣社長が開くボタンを押していたので、社長を優先しようとしたのですが、「働いている人からどうぞ、どうぞ。」と敬語を使い、先に降ろしていただきました。
大澤社長とは、社員扱いが真逆でした。
その中央宣興は、銀座の自社ビルを建てる時、自社ビル登記はせずに、「大澤総業」という会社の不動産にしました。
そこから中宣がビルを借りる仕組みです。
この家賃がバカ高い。
ですから、80年代には、自社ビルを出て、貸しビルにすれば、給料は1.5倍になると言われていました。
ちなみに、最近の話でも、売り上げが悪化してきているので、コピーは、自社のコピーを使えという指示が出たそうです。
しかし、コピー機は大澤総業のリースです。
今どき、A4が1枚50円。それを原価参入させられるそうです。
みんなキンコーズに行きたいと嘆いていました。
また、机やその他の備品まで大澤総業からのリースだそうです。
私の在職していた80年代は、給料が安くて有名で、業界10位なのにアサツーの新入社員の給料を越えることができたのでは6年目でした。
大澤社長は、80年代前半に、まず、自分の次男を入社させました。
私の2つ上で、大澤豊と言います。
これがいわゆる「バカ息子」で、経営にはあまりタッチしていませんでしたが、社員の考えていることを引き出すためなのか、私は良く飲みに連れて行かれ、六本木や銀座で社長のボトルをいただきました。
その後、私は88年に退社したのですが、その直後に長男の現社長大澤茂が入社してきました。
それを待つかのように、創業者大澤隆は亡くなり、長男の大澤茂が社長となり、驚くことに「社主」という肩書で、隆氏の奥様、社長のお母さんが常駐するようになったようです。
この茂社長も親子だけにとてもワンマンで、それまで支えてきたベテラン社員をことごとく閑職にしたり、クビにしたりで、イエスマンが周りを囲む組織になって行ったそうです。
最近、その大澤茂社長の子供が入社したそうです。
おばあちゃんと親父がいる会社にですね。
この子供がさらに曲者で、社会に出たこともない30歳の子なのですが、1年目は先輩に付いて勉強をしていて、今年に入って、ボードメンバー3人の内の1人になったとたん、今までの50歳の上司を怒鳴りつけて、辞職に追いやった事件が先月発生したばかりです。
その50歳の後輩は、実は私の初めての部下で、それまではボードメンバーの一人だったのですが、息子が入ってきて、お役御免になったようです。
とても優秀な人間だったので、50歳でも再就職は引く手あまたで、すぐに次が決まりました。
こんなワンマンな利己主義の社長一族は、まさに、北朝鮮と一緒です。
彼らは、隠し財産がたくさんありました。
それが、中宣名義で買われている不動産類で、創業者社長がなくなった際に、相続関係であぶり出され、中宣名義なら、社員の保養施設にしなさいと指導を受けて、いろいろな場所の別荘が明るみになったそうです。
今回、会社更生法を申請せずに、一気に、倒産の道を選んだのは、経営者責任を逃れるためです。
会社更生法を申請した場合、いろいろな資産をどのように生かして再生するかを検討するわけですから、会社名義のものはすべて処分されるでしょう。
また、外部から人が入ってきて、自分の会社としての更生は望むことはできないでしょう。
しかし、倒産にしてしまえば、あとは管財人と弁護士などで整理していきます。
うまく、資産を動かしていれば、それは、大澤家の財産になり、守られる可能性も大いにあります。
こういう裏が、倒産を引き起こしているのです。