シュレーディンガーの猫

東京大学医学部放射線科の中川恵一さんは『放射線のひみつ』『がんのひみつ』など、平易な言葉を使いながら、本質を一切値引きしない秀逸な一般向け著書をお持ちです。そこで中川さんがおっしゃっている1つの冷厳な事実は「がんに完治はない」ということです。

 「完全に治りたい」と言うのも、思うのも、人情としてはよく分かります。しかし、現実には20年前に治ったはずの同じがんが再発する、というのが、この病気の実際の臨床になっている。

 これを「健康」と「病気」という1対0で考えるのではなく、1度出てきてしまったら、生きている限り体の中に住み続ける「がん細胞」というやつらの存在をしっかりと認め、彼らに優勢になられないよう(そうなると、こちらの生命が危うくなりますから)一病息災、と「状態」の存在を認め、その可能な状態の重ね合わせとして、疫学的な検討や、自身の身を守る判断を下していくほうが、より「正しく怖がる」ことになるのではないか。

 実際、私たち普通の成人の体の中では、毎日5000個とも何個ともいわれる「悪性新生物」つまりガンの小さいものが、個別細胞単位では生まれているとも聞きます。これらは、私たちの免疫系の働きによって随時退治されているので、私たちはただちにガンに侵されたりはしない。またAIDS「後天性免疫不全症候群」に罹患すると、この免疫系が働かなくなるので、日和見感染の一種のようにして「カボジ肉腫」のようなガンが発症することも知られているところでしょう。

 私たちの健康というのは、実は免疫系の壮絶な戦いによって、不断に守られている「確率的な戦い」にほかなりません。体が劣勢になって病魔が勝ってしまうと、致命的なことにもなり得る。そういう可能な状態の重ね合わせとして考えることで、健康はまさに日々、水際戦でかろうじて維持されているという側面を「正しく怖がり」ながら理解することができそうです。

 「もう大丈夫だ」と口では言いながら、本当はだめなのではないかしら、と疑心暗鬼に陥るより、あり得るリスクとその生起の可能性を、できるだけあるがままに見つめながら、その時点時点で最善と判断される対策を取っていくことこそ、今私たちに求められる判断ではないのか。「絶対安全」という強弁は、大概、嘘になります。そうではなく、あり得るリスクを適切に評価する可能性を、シュレーディンガーの猫の「パラドクス」は示唆しているように思うのです。