船中八策

慶応3年(1867年)6月、龍馬はいろは丸沈没事件を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、のちに成文化されたもの、とされている。

公議政体論のもと、
憲法制定
上下両院の設置による議会政治
不平等条約の改定
海軍力の増強
御親兵の設置
金銀の交換レートの変更
など、当時としては画期的な条文が平素な文章として記されている。福井藩の政治顧問であり、龍馬との親交もあった横井小楠の思想からの影響も指摘されている。
8番目の経済政策は、海援隊を組織して貿易を行なっていた龍馬らしい着眼点といえる(金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、二国間で金銀の交換を行なうだけで利益を上げられるので、貿易や物価安定に好ましくない)。