私の履歴書

私は創業者のように思われているが実は2代目である。2年前に他界した父はギフトの小売りと卸をビジネスとしていた。父親は仕事熱心で小さいころから何かと仕事を子供にさせた。母親は3人の子育てに加え祖母祖父の世話、そして仕事といつ休んでいるんだろうというくらい働き者であった。そんな仕事一色の家庭に育った為、自分もいつかは社長をやるんだと漠然と思っていた。母親からの言葉で一番印象深く今も何かと思い出すのは「人の保証人になるな!」である。「貸すなら無くなってもいいと思うだけの金を貸す」今も実行している事である。

明治大学を卒業し広告会社に就職。当時広告は花形産業で糸井重里の「おいしい生活」が一世を風靡した時代である。コピーライターやテレビコマーシャルは斬新で芸術的ですらあった。今でも鮮明に覚えているのがホンダプレリュードのボレロの曲に乗ったコマーシャルだ。自分の人生はカッコよく楽しく金持ちになれれば最高と考えていた。だから大学時代から起業を前提に50歳までの年商と年収を決めていた。年商100億・年収1億である。華やかなイメージで入社したが待っていた仕事はイベントと看板だった。偶然かも知れないがサンセンドウが広告会社に業種転換して間もないころのメインの仕事はディーラーでのF1イベントであり、今バンコクにある関連会社SITCのメインは新車イベントである。

イベントの本番は華やかであるが、仕込みは緻密かつ面倒で突発が多い為仕事は深夜に及ぶ。イベント直前は毎日朝帰りは当たり前の過酷な毎日であった。看板はこれが広告屋の仕事かと思うぐらい地味であった。

そんな仕事が2年続いた1987年3月運命の日が来た。かねてより入院していた母親が亡くなったのだ。母親には何かと心配ばかりかけていた為後悔ばかりであるが、母親の為にも家業を継ごうと決心して広告会社を辞めた。

当時サンセンドウには60歳の父親と事務の女性とアルバイト店長がいるだけで、拡大発展ではなく何とか飯が食えている状態であった。私の使命は顧客開拓しかないと思い、役場に行き、死んだ人の自宅に訪問し香典返しを受注するというどぶ板営業もやった。店の宣伝、商品構成の変更いろいろやっても効果はあまりない。悩んだ挙句働いていた広告会社の名古屋営業所長の紹介もあり3件隣のクルマディーラーの社長を紹介してもらった。その社長には結婚式の仲介人までして頂きいまでも親しくして頂いている。その出会いが広告会社へ業種転換に発展するとは思ってもみなかった。


この出会いが自分の運命を変えたといっていい。初めは展示会のノベルティーの仕事ばかりであったが、元広告会社にいたという事でイベントの仕事を任されるようになった。当時はホンダF1無敵時代でセナ・プロスト・マンセル・ベルガ―と日本でもおなじみの役者が勢ぞろいで鈴鹿で開催されるF1日本グランプリはプラチナチケットで通常ルートでは手に入らないくらいの人気だった。そのF1マシーンをディ−ラーまで運び、集客をするイベントである。新聞やラジオ・チラシで告知し、F1コンパニオンがお迎えをするのが仕事である。その後F1オリジナルノベルティーをメーカーの許可をとりディーラーに限定し販売。これが当たった。注文は億単位に及び1993年には5億円を突破した。


好事魔多しとはこのことである。調子に乗ってセナの顔写真を時計に印刷したのが大問題となった。いくらホンダの契約ドライバーとはいえセナの肖像権をホンダが持っているわけではなかったのだ。許可をしたのはメーカーの出先営業所であり本社の知的財産を扱う部署ではない。1993年の年末メーカー本社から電話があった。「すぐに販売を中止して在庫は捨てなさい。そして年が明けたら青山に来るように」
今から思えばとんでもないことをしたわけであるが、当時は出先とはいえメーカー許可を取っていたし、小売りを消費者にしていたわけではないので何が問題なのかはっきり分かっていなかった。

幸運なことに面談して頂いたホンダの担当者はとても優しい方で、出入り禁止になるどころか分からないように販売店に在庫を売ってもよいということになった。それからイベントとノベルティー中心の営業品目からチラシ・DMへシフトしていった。


広告会社に在籍していたとはいえデザインや印刷は全くやったことがなかったので不安であったが、お客様に教えて頂きながら徐々に注文は増えた。1992年に埼玉県和光市に和光事務所を開設していたので、名古屋と東京をクルマで月に5往復する生活だ。クルマで移動するのは道中販売店へ営業する必要があったからだ。当時レジェンドにカーFAX、とドでかい携帯電話を積み受注した仕事を会社に伝えた。道中営業は今でも若い優秀な営業マンに引き継がれている。


広告会社が軌道に乗ってきたため幹部が必要になった。1992年に10人だった社員が1995年には20人に倍増したからだ。トップ営業マンというより一人で5億売っていては内部体制の確立は不可能となったのだ。その年証券会社に勤める弟(現SITC・GM)を誘った。私が開拓した顧客を弟が引き継ぎ育てるというパターンが出来上がった。
*SITCはサンセンドウインターナショナルタイランドの略


運がいいことに顧客は3年に1回はジョブローテーションで転勤する。付き合いのあった人が転勤したら、必ず行って営業する。北は北海道、南は鹿児島とかなり無理はあったがエリアは加速度的に広がった。
また東京で成功した事例は地方でも通用するので営業品目が使いまわせる。いつしか自社でタレントと契約してメインキャラクターとしたり、サンリオキティ―グッズをオリジナルで作成したりと全国の販売店に自社から案内することで大きな飛躍が始まった。


2000年には関西営業所、2001年には九州営業所と急拡大2003年には社員80人、年商18億5000万、2005年は20億弱に成長。1995年に立案した2010年年商100億経常利益10億が視野に入ってきた。学生時代たてた目標が現実味を増してきた。残念ながら当時は経営者でありながら経営がよくわかっていなかったので、思いついたら吉日、社員を思いつきで振り回す経営であった。2006年運命の施策がメーカーから打ち出された。3つあった系列を一つにするというのである。


3系列から同じエリアに宣伝していたのが突然1つになったのだ。シュミレーションが甘かったといえばそれまでだが、あらかじめ売り上げ急減を予測してなかったため2007年運命の決算がやってきた。4000万近い赤字である。新規事業も2006年から始めていたがとても本体を支えるレベルにはなっていない。あわてて役員給与を下げ、3つの営業所を閉鎖して事業再構築が始まった。その時手腕を発揮したのが伊藤顧問である2009年まで毎年のように経費削減、不良資産売却を続け2010年やっと売り上げが前年を超えるようになった。


なぜそうなったかずっと考えた。①PLしか見ない、見れない経営だった。自己資本蓄積は節税対策をやりきったあとの残りであり、さほど重要視しなかった。②業績が右肩上がりのとき、こんな事態を予想し手を打ってこなかった。③顧客価値に本当の意味でフォーカス出来ず,今あるスキルや強みのみで戦っていた。3年かけて強みを創るんだという強い意志がそこにはなかった。④ビジョンを見失っていた。ビジョンは売上、経常利益ばかりで社員にこんな未来があるというメッセージはなかった。⑤社長が現状に胡坐をかいていた。


それぞれ少し解説したい。①会社とは社会からの信用で成り立っている。信用とは*創業からの時間*顧客のレベル*経営者の人品骨柄*会社の社員への待遇*取引先からの評価などお金以外の要素も多い。しかしながら会ったことのない第三者が判断するのは、継続して利益を出し続け、内部留保に努める姿勢が経営者にあるか否かである。強いBSは外部資源を巻き込み経営を有利に出来ることを初めて知った。

②人間いい時はつい調子に乗り無駄使いが多くなる。決算対策は一見節税に都合よく見えるが、実は無駄の塊であることが多かった。儲けた時こそ、次の展開のための投資を積極的にすべきである。しかしながら経営者に長期ビジョンがない場合は、目先の投資話につい乗ってしまいがちなので、注意が必要である。BSをよくしても使い道が明確でないのは経営者としてやりたいことを見つめなおす好機でもある。

③目先の利益と未来の利益は常に相反する。今の実績を真剣に上げようとすればするほど利益は出ても会社の未来は損なわれる。これを解決するには2つ方法がある。一つは会社が腹をくくって評価を変えてしまう事だ。もう一つは健全な赤字部門を本体から切り離し管理していくことだ。2つとも簡単ではないが成長し続けるには計画的にやるしかない。それそのものが経営計画であり、事業計画なのだ。

④利益目標には理由が必要である。なぜ10億の経常利益が必要なのか、経営者がよどみなく云えることが最も大切である。自分や社員の給料を上げたいだけでは顧客も社会も許しはしないだろう。10億をこんな社会づくりに役立てたい。アジアと日本の架け橋になる人材育成の為アジアに起業家育成スクールを開講したい。など社会の為になる、しかも自分もワクワク社員もワクワク顧客もワクワクという絵がどうしても必要である。


⑤私は学生時代60歳までの収入計画をつくった。50歳で年収1億だったから今はそれに遠く及ばない。35歳の時創ったスリーハンドレッドも結果として実現していない。何故か?それは自分の快楽が目的で誰かのために何かをするという発想がなかったからだと思う。だから半分もいかないのに体がいつしか現状に満足してしまう。そしてチャレンジしなくなる。井の中の蛙であることすら分からなくなっていた。本当は人のためにいやなことでも進んでやる性格だったのに、そんな自分はどこに行ってしまったのだろう。今はっきり云えることがある。人生はチャレンジし続けることのみに意味があり、その結果は2の次にすぎない。なぜなら計画を達成したらやることがなくなり、あとは座して死ぬしかなくなってしまうからだ。


いろいろあったが、私も本体の赤字から5年経ち、やっと変わり始めてきた。長年の夢であったアジア進出を果たし、今年度はアジアも黒字になると手ごたえを掴んでいる。これからも自分がワクワクすることが、周りをそして社会を元気にすることと信じて新しい事業にチャレンジし続けたい。