落合

落合が監督として成功した理由は何であろうか? 
第1は落合の選手との「コミュニケーション能力」だろう。
落合は選手時代・解説者時代に、数冊の本を出版している。監督に就任してからは1冊の本も出してないが、実は落合の著書は教育書としても素晴らしい出来ばえなのだ。野村克也広岡達朗の本とともに、野球選手の本の中で図抜けている。
落合は複数の出版社から本を出しているが、どの出版社の本も文体が同じである。同じ著者なのだから出版社が変わろうが文体が一緒なのは当然じゃないかと思われるかもしれないが、スポーツ選手の本はゴーストライターが書くことが多いので、出版社が変わるとゴーストライターが交代し文章も変わる(代わる?)
しかし落合の本は、どの出版社から本を出しても文体が似ていて、これは同一のゴーストライターが書いているか、もしくは自分が書いているかどちらかである。
落合は自分がペンを執らないと気がすまないタイプだと思うし、また落合の文体には独特の癖があり、洗練されたプロのラーターが書く文章とは違う無骨な良さがある。ゴーストライターには書けない味がある。
落合はマスコミに対しては無愛想だが、本を読む限り自分の意図を言葉にする技術は並々ならぬものがある。落合の文章は自分の考えを忠実に言葉にしようとする誠意に満ち、読み手はハッキリ落合の語りたいことを汲み尽くすことができる。
優れた教師は、生徒に対して自分の意図を明確に示すことができる。落合は必要最低限のことしか話さない指導者だが、言葉でのコミュニケーション能力が図抜けていることは著書を読めば痛切にわかる。
私が野球選手なら落合監督の元で野球をやってみたいと、ひしひし感じさせる何かがある。中日の選手達も、落合の目指す野球をしっかりと把握できたのではないか。
饒舌だけどコミュニケーションが下手な人もいれば、寡黙なのに優れたコミュニケーション能力を持つ人もいる。落合は典型的な後者だと思う。
第2は落合の「凄み」である。
落合ほど現役時代の実績がある監督はそんなにいない。ただ現役時代の成績が監督の成績に繋がらないのも事実である。現役時代の数字だけで若い選手は平伏したりはしない。鈴木啓示金田正一がいい例である。
しかし落合は監督になってからも、抜群の技量を選手たちに目の当たりにさせることで信望を得てきた。
落合の凄みとは、具体的には彼のバットコントロールである。
落合は現役時代、バットにボールを当て打球を左右にコントロールする名手だった。落合は巧みなバットさばきで、右へ左へと自在にボールを打ち分け、三冠王に3度も輝いた。
今年の春、左の大打者・カープの前田がテレビで「できるだけ長い間ボールをバットに接しておく」という万人が真似できぬバッティングのコツを平然と語っていたが、落合のバッティングは素人目から見ても、ボールとバットが接している時間が長かった。
細いバットが線ではなく面に見え、まるでテニスラケットでボールを打っているようだった。
バットコントロールの名手だから、落合はノックがずば抜けて上手い。ノックバットで右へ左へ変幻自在に打球を転がす。ノックを受ける選手が嫌がるバウンドや方向に、打球を簡単にコントロールする。
荒木雅博井端弘和の二遊間が日本のプロ野球随一の守備力を誇るのは、落合のノックに原因があるらしい。
落合は現役時代の広角打法を、監督になってからはノッカーとして生かし、ノックの凄みで選手たちの技量を上げ、同時に尊敬の念を抱かせる。
現役時代に培った職人芸を見せつけ、選手たちに「監督には勝てない」と思わせることが、監督の統率力を高めた。
たとえば塾や学校でも、教師が生徒から敬意を勝ち得るには、生徒に対して時折「凄み」を示さなければならない。
数学や物理の難問を質問されたら瞬時にスパッと解くとか、誰も知らないような社会の用語を知っているとか、小論文で論旨のパリッとした手本の文をササッと仕上げるとか、とにかく妖刀のように頭の切れる博識な先生に対して、知的才能を持つ子は無条件で信奉するものなのである。
第3の要因は落合の「教育欲」の強さだろう。
落合が並々ならぬ「教育欲」を持っていることは著書から明白である。
落合が解説者時代の2001年に「コーチング―言葉と信念の魔術」という本を書いているが、そこでは自分が監督やコーチになったらどんな指導をしたいか明確な指針が示されている。
2001年の出版当時は落合も監督未経験者で、この本は「すぐれた書生論」としか読まれていなかったが、いまでは4年間に2度のリーグ優勝、1度の日本一を成し遂げた「名監督のビジョン」へと昇格した。
落合の監督としての実績で、監督未経験者の空理空論は、地に足の付いた実践論へと姿を変えたのである。
コーチング」からは、自分はいつか監督になりたいという強い願望が読み取れる。
コーチング」を書いた時期、落合は選手としては優れているが、「オレ流のヤツに監督コーチが務まるわけがない」と指導者の資質には疑問符がつき、どの球団からも監督コーチとしてほとんどお呼びがかからない時代だった。
落合も張本勲衣笠祥雄江川卓掛布雅之のように、現役時代の実績は素晴らしいのに監督コーチにはならない一人として認識されていた。
落合を誘ったのは横浜監督の森祗晶氏ぐらいで、落合はこの本で、森監督から臨時コーチとして招かれ、多村を育てた数少ないコーチとしての経験を紹介している。
またユニークなのは、コーチとしての経験があまりに少ないため、落合は何と息子の福嗣君のPTA会長だった経験を持ち出し、同級生の父母の代表として、人を統率することの難しさを説いていることだ。
監督成功者の本は、川上にせよ広岡にせよ野村にせよ森にせよ、「誰々を育てた」「オレはこうしてこのチームを統率した」と成功例に事欠かない。
しかし浪人時代の落合が他人を指導した例は、横浜の多村とPTAのオバサン達しかいなかったのだ。
PTAのオバサンを統率する例が出てくるなんて、強い「教育欲」を持ちながら誰からもお呼びがかからない落合の不遇が痛々しく思えてしまう。
ところで「教育欲」は人間が持つ様々な欲望、たとえば食欲・性欲・権力欲なんかと比べて遜色がないほど、ある種の人には強い欲望だということが、落合の本からはわかる。スポーツの監督コーチでも、学校や塾の先生でも、教える側の人間にとって「教育欲」は必要不可欠な資質であることは疑いない。